はじめに:まるで壊れかけた夢の断片

ロベルト・シューマンのピアノ曲《フモレスケ 変ロ長調 作品20》ほど、「なにが起きているのかよくわからないのに、妙に惹かれてしまう」作品は珍しいかもしれません。
断片的で、気まぐれで、繊細で、脆くて、それでもなおどこか音楽として成立している――そんな曲です。

この曲を初めて聴く人は、きっとこう思うでしょう。

「楽章の区切りは? 主題は? 論理はどこに? ……いや、もしかしてこれは、感情の断片集なのでは?」

そう、まさにその通りなのです。シューマン自身が《フモレスケ》と題しながら、内容はユーモアなどとは程遠い、どこか塞ぎ込みがちな精神の彷徨を記しています。今回はその内実に、ねちねちと迫っていきましょう。


書かれた背景:ユーモアどころではなかった?

1839年、ウィーン滞在中のシューマンがこの曲を完成させました。恋人クララとの結婚を父ヴィークに反対され続けていた時期で、心身共に疲弊していたといわれます。

シューマンはこの曲について「僕が今までに書いた中で最も憂鬱な作品」と語っており、原題の“Humoreske”は「ユーモア」よりも“気まぐれな感情のスケッチ”という、ドイツ語的な解釈で捉えるべきでしょう。

そして実際の内容も、明るく快活なユーモアとはほど遠く、まるで情緒が崩壊しかけた作曲者の自画像。まるで寝つきの悪い夜に見た夢の断片のようです。


構造の「不在」:あるいは破綻の美学

《フモレスケ》には、通常のソナタ形式やロンド形式といった「枠組み」はありません。代わりにシューマンは、7つの部分から成る断片的なエピソードを無造作につなぎ合わせています。

概要:

  1. イントロダクション風の軽快な冒頭(しかしどこか陰り)
  2. 内省的で涙ぐみそうなレチタティーヴォ風の部分
  3. 無邪気な主題の変奏(といえるかどうかの部分)
  4. 突如あらわれる異常に美しいメロディ(シューマンの天才性のひとつ)
  5. 短調による沈鬱なエピソード
  6. 病的なまでに繊細なラルゲット
  7. 再現部のようで再現ではない、唐突な終止

構造を追えば追うほど、**「これは本当に楽曲なのか?」**という疑問が湧いてきます。しかしそれはシューマンにとっては重要ではなかったのかもしれません。
彼が追っていたのは、精神の軌跡そのもの――音楽ではなく、意識の推移です。


病的な美しさと、ドイツ的な病弱さ

この曲で最も印象的なのは、やはりメロディの美しさでしょう。
中でも第4部に現れる“あの旋律”――シューマンの妻・クララへの想いを託したかのような、包み込むようなラインには、誰もがはっとするはずです。

しかしそのメロディも、しばしば唐突に、あるいはあっけなく終わります。まるで続ける力が尽きたかのように。

ここにこそシューマンの病的なまでの内面性、そして「ロマン派的理想主義」と「メランコリックな現実逃避」というドイツ的二面性が表れています。彼はベートーヴェンのような英雄ではなく、(本当はベートーヴェンのような作曲家になりたかった・・・)紙のように薄く、感情に引き裂かれる詩人だったのです。


演奏方法:一貫性ではなく、“ずれ”を愛でる

この曲を弾くうえで大切なのは、「きちんと整える」ことではありません。むしろ、不安定さ、ためらい、気まぐれをどれだけ肯定的に引き受けられるかが鍵です。

技術面の留意点:

  • フレーズの切れ目を明確に:構造が曖昧なぶん、呼吸感を大切に。
  • ペダルの使い方に工夫:混濁せず、響きに微細な濃淡を。
  • テンポの揺らぎをあえて活かす:リタルダンドやアッチェレランドを過度にしないが、心の揺れを乗せる。
  • 内声の動きを丁寧に拾う:表面には出ないドラマが、内側に渦巻いている。

そして何より、「病的」と言われる要素に真正面から向き合うこと
シューマンは自分の精神を音に変えたのです。演奏者がその「異常さ」を怖がってはいけません。


結びに代えて:理解されなくても、美はある

シューマン《フモレスケ》は、「わかりやすい構造」や「筋の通った展開」を期待する人には向きません。けれど、破綻と紙一重の情感の奔流整理されない感情の断片を美と呼ぶなら、この作品はまさに“心の音楽”の極致です。

クララに届かぬ手紙のように、語りかけながら応えは得られず、それでも続ける音たち。
不格好で、不安定で、そしてとびきり美しい――それがこの曲の正体かもしれません。


おすすめの演奏:

スヴャトスラフ・リヒテル:幻視者のような透徹した演奏

クラウディオ・アラウ:透明感と陰鬱の奇妙なバランス

ウラディーミル・ホロヴィッツ:感情の爆発ではなく、静かな崩壊


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