老いてなお、音に向かう

音楽家にとって、加齢は静かに訪れる壁です。
体力、反射神経、筋力、柔軟性、集中力……
どれも楽器演奏にとって不可欠なものでありながら、年を重ねればどうしても衰えが出てくる。

たとえば、バイオリン。

名手と呼ばれた人たちでさえ、還暦を過ぎると、あの圧倒的な音が“どこか不安定”になる瞬間がある。
体をひねる姿勢を長時間維持し、常に片側の筋肉に負担をかけ続けるこの楽器は、年齢との戦いがとくに過酷な部類に入るのかもしれません。

では、体をひねらないチェロなら大丈夫かというと、そうとも言い切れない。

ある巨匠の70代の演奏を聴いたとき、やはり“雑音の混ざり”が気になった。
音の立ち上がりに微妙なブレが生じ、ボウイングの精度がわずかに崩れる。
わずかでも、それが「音楽の透明感」を損なってしまうのです。

高齢の演奏家の音に“雑音”が増える――これは、決して技術を責める話ではなく、人間としての宿命とも言える事象です。

けれど、そんな中、例外のように“衰えを感じさせない”楽器があります。

そう、ピアノです。


晩年のピアニストたちは、なぜあれほど強いのか

もちろん、ピアニストにも年齢の影響はあります。
たとえば、晩年のスヴャトスラフ・リヒテルの演奏には、テンポの遅さや表現の重さに賛否が分かれました。

けれど、それでも「音の色彩感」や「歌心」といった点では、他の楽器奏者の“衰え”とは異なるタイプの変化でした。
それは“老い”というより、“変化”だったのです。

そしてなにより、70代・80代でも高水準の演奏を続けているピアニストが、あまりにも多い
マリア・ジョアン・ピリス、アルフレッド・ブレンデル、内田光子、マルタ・アルゲリッチ……
年齢を重ねるほどに深みを増し、むしろ「今が一番いい」と評されることすらある。

ピリスのショパンにしても、アルゲリッチのラヴェルにしても、まさに“時を超える音楽”です。


なぜピアノは「衰え」が目立ちにくいのか?

その理由はいくつか考えられます。

まず第一に、ピアノは音の発生機構が他の楽器と異なるという点。
バイオリンや管楽器は、奏者の体と直接連動して音が作られます。
呼吸、筋力、皮膚感覚、微細な筋肉操作……
それらすべてが“音質”そのものに影響を与えます。

一方ピアノは、鍵盤を押せばハンマーが弦を叩き、その構造は機械的です。
もちろん、タッチやペダリングなど、音色に個性は出ますが、それでも音が出る仕組みは安定している
つまり、「音が鳴らない」ということは起きにくいのです。

さらに、ピアノは身体の中心軸を崩さず演奏できるという利点もあります。
長時間の姿勢保持や特定の部位への負担が比較的少なく、年齢による身体的ストレスが溜まりにくいのです。

そして、ピアノには**“考える力”が大きく関与する**という特性があります。

和声の動き、構造の把握、フレーズの意味づけ。
こうした「頭脳の音楽性」は、年を重ねるごとにむしろ磨かれていく部分でもあります。


ピアノは、50代からでも遅くない

このように、ピアノは加齢による影響が比較的出にくく、むしろ年齢を重ねたからこそ深まる表現が可能な楽器です。

実際、50代や60代からピアノを再開する人、はじめて挑戦する人も珍しくありません。
手が動きにくくても、目が見えにくくなってきても、それでも「音楽はできる」。
そんな希望をくれるのがピアノという楽器です。

“もう歳だから”とあきらめるには、あまりにももったいない。

鍵盤の上に手を置くだけで、今日の気分を音にできる。
たとえ短い時間でも、自分の感情と向き合える。

それが、ピアノの魅力であり、人生に寄り添ってくれる楽器たるゆえんです。


あなたがいま何歳であっても——

ピアノは、遅すぎることのない楽器です。
50代でも、60代でも。
これからでも、何かを始めるにはじゅうぶんな年齢です。

ゆっくりでもいい。うまくなくてもいい。
鍵盤の上に指を置けば、あなたの中にあった“音楽”が、少しずつ形になっていきます。

もう一度、弾いてみたい。
はじめて、弾いてみたい。

その気持ちがあるなら、それだけでじゅうぶんです。
技術は、あなたと一緒に、きっと長持ちしてくれるはずです。


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