「読めなくなる」社会で、「弾けなくなる」ことも起きている
2023年に刊行された、三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)は、働く人が本を読めなくなる理由を、単なる“時間不足”ではなく、もっと構造的な問題として捉えなおすものでした。
「読む」ことを妨げているのは、労働時間だけではない。
「読みたい」と思えるだけの心の余白の喪失や、選ぶための体力・判断力の枯渇こそが、本との距離を遠ざけている。
この本を読んだとき、ふと頭をよぎったのはピアノのことでした。
なぜ、大人になるとピアノを弾かなくなるのか。
なぜ、かつては家の中に当たり前にあったはずの楽器が、いつのまにか「特別なもの」になってしまったのか。
本と同じように、音楽もまた「触れたいけど触れられないもの」になりつつあるのかもしれません。
ピアノ経験者は多い。でも、弾き続ける人は少ない
ある調査によれば、日本では15〜20%の人が「子どものころピアノを習っていた」と回答しています。
この数字は国際的に見てもかなり高く、日本は間違いなく“ピアノに触れる機会が多い国”です。
けれど、成人後にピアノを続けている人は、それに比べて驚くほど少ない。
習っていた人が多いにもかかわらず、辞めてしまう人が多い。
この落差は、音楽教育の限界というよりも、社会構造の問題かもしれません。
集合住宅と“沈黙の美徳”
日本の都市部で暮らす多くの人にとって、「音を出す」ことはハードルになっています。
とくにピアノのように音量が大きく、構造的にも生音で鳴ってしまう楽器は、マンションやアパートでは扱いづらい存在になりがちです。
防音対策や電子ピアノの導入などの手段はあるにせよ、それでも「周囲に気を遣う」という前提がある時点で、心理的な壁ができてしまいます。
“迷惑をかけないこと”が美徳とされる社会において、ピアノは「一人で家で弾くには大きすぎる楽器」になってしまったのかもしれません。
時間の足りなさ、ではなく、「余白のなさ」
三宅さんの本でも繰り返し強調されていたのは、「時間がないから本が読めないのではない」ということでした。
本当は“本を読む”という行為には、選ぶ・集中する・読み進めるというプロセス全体を支える「精神の余白」が必要なのです。
ピアノにも、似たような余白が求められます。
ただ音を鳴らすだけなら、5分でもできます。
けれど、練習に没頭するには、ある種の“静かな時間”や“精神の余裕”が必要です。
今日の仕事のことを考えながら鍵盤に向かっても、手は動いても心が乗らない。
何かを表現するどころか、「音を出すことにすら抵抗を感じる」という日もあるでしょう。
「ピアノを再開したい」と思うことの、静かな勇気
一方で、近年、大人になってからピアノを“再開する人”も増えています。
電子ピアノの技術は大きく進化し、サイレントモードで夜にこっそり練習することも可能に。
YouTubeやSNSを使えば、先生がいなくても楽譜やレッスン動画にアクセスできます。
ピアノ教室も、「大人初心者歓迎」を掲げるところが増えてきました。
かつてのように“完璧に弾くため”ではなく、“自分のために鳴らす”というスタンスが広がりつつあります。
それは、音楽の楽しみ方が、より多様になってきた証でもあるでしょう。
ピアノをやめたあなたを、責めないでほしい
もし今、「昔は弾いていたけれど、もう何年も触っていない」と感じている人がいたとして。
それは、あなたのせいではないと思います。
働き方、暮らし方、住まいの構造、そして社会全体の空気感。
すべてが、音楽を「後回しにする理由」に満ちている時代です。
けれど、だからこそ。
ちょっとだけ立ち止まって、鍵盤に触れてみる時間を持つことは、
自分の内側にある“ひとりの時間”を取り戻す、ささやかな抵抗なのかもしれません。
音楽は、なくても生きていける。でも、あれば人生が変わる
ピアノは、人生のなかで“ふと再会できる”楽器です。
指が覚えているあのフレーズ。
何年も前に弾いた曲を、手探りで思い出すあの感覚。
働きながら、暮らしながら、音を取り戻すという営みは、決して派手ではありません。
でも、それはきっと、あなたの時間のなかに小さな光を灯すような出来事になるはずです。
今日、鍵盤に触れてみたくなったあなたへ。
ピアノは、もう一度鳴らされるのを、きっと待っています。
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