クラシックピアノの世界では、奏法論の話題になると、どうしても「重量奏法」や「脱力」の語が一人歩きしがちである。おそらく、教育現場においても「音さえよければ、見た目は問わない」といった風通しのよい発言が、ある種の親切心とともに飛び交っているのだろう。だが、演奏という行為は音だけで成立するものではなく、視覚的な印象も含めて、文化的に構築された「様式」である。特にコンサートという公共空間においては、手の形すら一種の「マナー」であると、私は信じている。

第一関節が「沈む」演奏の正体

さて、一定数存在する「第一関節が弾力的に沈みながらピアノを弾くプロ奏者」がいる。大手音楽教室のピアノ講師のレッスン動画において、ぐにゃぐにゃな関節で奏でられる模範演奏を見たことがあるだろうか。彼ら(または彼女ら)の動画がSNS上で拡散されるたびに、筆者のタイムラインにもその映像が流れてくるわけだが、そこには一種の生理的違和感が漂う。まるで関節が内部から溶けていくかのような、独特の視覚的グロテスクさがあるのだ。

もちろん、彼らの演奏に対する技術的評価を軽んじるつもりは毛頭ない。音楽表現というのは本来、音そのものの説得力に重きを置くべきであって、関節の角度を糾弾するのは野暮というものである。しかし、あえてここではその「野暮さ」を引き受けよう。なぜなら、ピアノ演奏は単なる音の発射装置ではないからだ。

ヴァイオリン奏者は許されているが、ピアニストは違う

比較のために、ヴァイオリン奏者のビブラートを取り上げてみよう。彼らはその音色の柔らかさを得るために、指を積極的に震わせる。結果として、バイオリン演奏中のみならずピアノ演奏中にも関節が不安定に動くのはある意味当然で、職業としての正当性が付与されている。

だが専業のピアニストは違う。ビブラートの代替物が存在しないため、手の静止性と構造的な安定感が、そのまま演奏の「品格」に直結する。第一関節が深く沈み、まるでスライムのように鍵盤上を泳ぐ様は、どこか視線に不安を与える。そして残酷なことに、この「視線からの違和感」は文化的記憶として記録され、やがて「品位」の欠如として読み取られてしまう。

重量奏法は免罪符にならない

ここでしばしば挙げられる反論が、「重量奏法を突き詰めれば、手の形は二の次」という主張だ。しかし、これはあまりに短絡的である。重量奏法とは本来、腕の重さを鍵盤に効率的に伝えるための身体操作論であり、決して「指が溶けてよい」という免罪符ではない。

むしろ、重量を安定的に支えるためには、第一関節が必要以上に潰れていてはならない。もし指が鍵盤上で不安定に揺れているとすれば、それは重量が「逃げている」可能性すらあるのだ。つまり、関節が沈む奏法は、その重厚な音色の代償として、内部的には非効率を孕んでいるのかもしれない。

「整った手」は育まれた美意識のあらわれ

第一関節が自然な弧を描く手の形は、単なる技術ではなく、音楽と丁寧に向き合ってきた時間のあらわれとも言える。

ピアノの演奏において、手の形そのものが静かな説得力を持つことがある。それは、指導や自身の気づきを積み重ねる中で育まれてきた、演奏へのまなざしの一部だからだ。

無理に形を整える必要はないが、整った手にはどこか、音楽への誠実な姿勢がにじんで見えるだろう。

さいごに

第一関節がぐにゃりと沈むプロピアニストを見て、どこか「気持ち悪い」と感じるのは、決して個人的な偏見ではない。それは、演奏という行為に対して、私たちがどこかで**「構造美」や「理想形」を求めている証拠**なのだ。

もちろん、音楽は自由であるべきだし、指の形が美しくなくても心に響く演奏はたしかに存在する。しかし、その一方で「美しい指の形」は、それだけで語る価値を持つ造形物である。指先の動きひとつで聴衆の感性を動かせるという点で、それは音に先んじて、音楽の語り部たり得るのだ。

第一関節の整え方ひとつで、音楽はもっと美しくなるかもしれない。それは音の問題であると同時に、見る者の文化的記憶に寄り添うマナーの問題なのである。


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