はじめに:「リストの呪い」と現代のピアノ男子

都市部の私立中高、あるいは桐朋学園や音大付属のようなレベルの高い音楽教室には、一種独特の空気が漂っている。なかでも男子ピアノ学習者1に特徴的なのが、「超絶技巧」への異様なまでの執着だ。リスト、ホロヴィッツ、ラフマニノフ、プロコフィエフ、そしてカプースチン――。そうした“神々”のテクニックに、ある種の信仰を抱いているのだ。

もちろん、技巧に憧れること自体は自然なことだ。ただ、ある種の男子にとっては、それが「ピアノを弾く理由」そのものになっているように見える瞬間がある。

なぜ男子は「超絶技巧」に走るのか?

1. 表現よりも“征服”の美学

女子生徒が「この曲、きれいだな」と感じて弾き始めることが多いのに対し、男子生徒の多くは「この曲、弾けたらスゴくない?」という目線で楽譜を手に取る。とりわけ中学〜高校の男子は、「表現」よりも「制覇」への欲望が先に立つ。

ピアノは鍵盤楽器であるがゆえに、一定以上の技術があれば見かけ上“全部”ができてしまう。これが男子にとっては「攻略対象」としての魅力を持つのだ。まるでゲームのボスキャラを倒すように、ショパンのエチュード作品25-6を“クリア”したい。ピアノが「腕自慢の場」になる。

2. 承認欲求の通貨としての“速さ”

音大予備校的な教室や私立中高に通う男子にとって、技術は「わかりやすく他人を黙らせる手段」として機能する。彼らが好きなのは、技術そのものというより、それを見せつけたときの周囲「すごい…」という視線である。

「誰も弾けないような曲を弾ける」ことは、男子にとって承認の証であり、ピアノという“武器”を通じた自己証明となる。そして“速さ”はその最も明快な通貨だ。速ければ速いほど、すごい。音楽性?感性?いまはそれ、あとでいいや。(逆に歌謡的な楽章ではやりすぎるくらい歌い失笑を買う人もいます)

桐朋学園の「超絶技巧選手権」とその象徴性

桐朋学園の文化祭で開催される「超絶技巧選手権」は、いまや同校の名物企画となっている。名称こそ冗談めいているが、その実、出演者たちは一流の演奏技術を競い合う本気の舞台だ。しかもこの選手権、ピアノに限らない。ヴァイオリンやクラリネット、さらには打楽器まで、あらゆる楽器で“超絶”が炸裂する。

演奏される曲も、モンティ《チャルダッシュ》やパガニーニのカプリース、カプースチン、プロコフィエフなど、“見せ場”に富んだものが選ばれる傾向がある。その中で、特に男子学生の中には、より速く、より派手に、より難解なレパートリーで観客の度肝を抜くことに執心する者が少なくない。

もちろんこれは芸術表現であると同時に、「技巧とは何か」「魅せる演奏とは何か」という問いを投げかける場でもある。だがその一方で、このイベントが静かに示しているのは、技術の先鋭化に傾倒する若き音楽家たちの“欲望のかたち”である。

ストリートピアノ男子の映し出すもの

最近では、ストリートピアノでも同じような傾向が観察される。YouTubeやTikTokに上がる「若きピアノ男子」は、たいていカプースチン、リスト、あるいはジャズ風アレンジを超絶技巧で弾き倒す。

彼らが選ばれる理由のひとつには、「かわいさ」がない、という要素もあるかもしれない。女性ピアニストが“華”で惹きつけるなら、男性ピアニストは技巧で惹きつけるしかない――という認識が、暗に働いているのだ。

男子ピアノ学習者にとって“超絶技巧”とは何か?

超絶技巧は、彼らにとって「自己証明」であり、「居場所作り」であり、そしてある意味で「男らしさの演出」でもある。音楽そのものというより、“演奏する姿そのもの”が重要なのだ。

しかしその一方で、技巧に走る男子たちの一部は、意外にも“繊細”で“感情の処理が不器用”だったりする。技巧に逃げている、と言ってしまえばそれまでだが、彼らなりに「美しい音楽とは何か」という問いに向き合っているのかもしれない。

まとめ:技巧を超えて“音楽”へ

中高生男子の“超絶技巧信仰”は、ある種の通過儀礼のようなものかもしれない。弾けるようになることで、自信をつける。尊敬される。音楽的に優位に立てる――そういう“装置”として機能している。

だが最終的には、多くの男子が気づくのだ。「本当に難しいのは、“自然に歌うこと”なんだ」と。技巧を超えて、モノホンの“音楽”に出会うその瞬間を、私たちは静かに待ちたい。


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