■ ブラームスが「練習曲」など書くとは
ヨハネス・ブラームス。
重厚な交響曲、陰影に富む室内楽、深遠な宗教合唱曲……。気難しいドイツ的構築主義の代表ともいえる彼が、練習曲を──しかも、手の訓練に特化したような作品を──書いたなどと聞くと、少し不思議に感じる人もいるかもしれない。
だが《51の練習曲(51 Übungsstücke)》は、まさに彼の音楽観そのものだ。甘さは一切ない。譜面を開けば、そこにあるのは無機質な音型、厳格な対位法、そして重く不器用なパッセージと分厚いハーモニー。華麗なテクニックの見せびらかしなどない。
それなのに──そう、それなのに、である──どこか「ロマン派の粋」が、密やかに潜んでいる。
なぜ、あの厳格なブラームスが、こんなにも“身体性”を要求する練習曲を書いたのか?
答えは、彼の出自と美学、そして”共演者への異常な無慈悲”の中にある。
■ 居酒屋の屋根裏から生まれた音楽家
ブラームスは、決してサロンの申し子ではなかった。
ハンブルクに生まれ、父はコントラバス奏者という職人肌。貧しい家庭を支えるため、少年ブラームスは酒場の屋根裏でピアノを弾き、小銭を稼いでいた。娼館での演奏の記録も残っている。
つまり彼にとって音楽とは、最初から「芸術」などではなかった。演奏することは、飯を食うことだった。
だからこそ、音楽の“技巧”は、彼にとって「憧れ」ではなく「武器」であり、磨き抜かれた身体的所作だったのだ。
■ ピアノの音が大きくて?──共演者にすら容赦なし
ブラームスの演奏スタイルは、内向的でいて、きわめて肉体的でもあった。彼は音を「触覚」として理解し、音型を「重さ」として捉える。それゆえに、共演者とのバランスには時に無頓着──いや、悪意的とさえ言える態度を見せることがあった。
有名なのは、あるチェリストとのエピソードである。
室内楽の共演中、ピアノがあまりに強く、チェロがかき消されてしまった。困り果てたチェリストが「ブラームス先生、もう少し音量を抑えていただけませんか。チェロが聴こえません」と抗議したところ、彼はこう返した。
「それは君のためだ」
──この返答には、冗談めかしたニュアンスはない。むしろ「お前の音など、聞こえないほうが作品のためになる」という、痛烈なまでの審美的判断がにじんでいる。
ブラームスにとって音楽とは「感傷の共有」ではなく「構造の提示」であり、「対話」ではなく「断定」だったのだ。(音楽そのものは感傷と対話にあふれているにもかかわらず!)
■ ドリルと対位法、そして華やかさのエッセンスが同居する《51の練習曲》
《51の練習曲》の最大の魅力は、ただのハノン的ドリルでは終わらない点にある。
確かにその多くは、技巧の徹底的な抽出を目的としている。左右で異なるリズムを弾き分けるポリリズム、広い音程を支配するための掌の展開、音型の変容による筋肉の制御訓練。だが、その中に、ブラームスはこっそりと──だが明確に──ロマン派の技巧的パッセージの本質を詰め込んでいる。
とくにメンデルスゾーン以後に発展した「軽やかでありながら、構造的な美しさを持つ技巧表現」、つまり華やかさと理性の合体──それこそがこの曲集の裏テーマだ。
リストやショパンが身体的な閃きを音楽へと昇華したように、ブラームスは知的で構造的な形式に、その技巧の輝きを埋め込んだ。
この曲集は、ただの“鍛錬”ではない。むしろ“技巧美”を抽出し、再編成し、芸術的ドリルとして結晶化した19世紀後半の技巧観の凝縮なのだ。
■ ブラームスにとっての練習とは、「音楽そのものを再構築すること」
指の動きひとつに、音楽的理念を込める作曲家であったブラームス。
彼の理念とは──無駄のない手の動きの中に、最大限の響きを生み出すこと。そのために、練習とは精神修行であり、音楽構造への服従でもあった。
《51の練習曲》を通して、彼はこう語っているように感じられる。
「お前は手を動かしているのではない。構造を操っているのだ。」
■ 具体的な練習方法
ブラームス《51の練習曲》は、いわゆる「指のための練習曲」ではない。
表面的な運指の強化やスケールの繰り返し練習とは、一線を画している。
この練習曲に挑む際は、「音楽をどう“構築するか”」という意識が何より重要になる。
この曲集で身につけられる技術は、概ね以下の二つに大別できる:
- ① 一つの手で二声部を独立させる能力
- ② ロマン派音楽の技巧的・慣用句的パッセージへの習熟
以下、それぞれに必要な練習方法と具体的アプローチを解説する。
● ① 一つの手で二声部を独立させる訓練
この曲集で最も多く登場する課題の一つが「片手でのポリフォニー」である。
特に右手において、高音域の旋律と中音域の内声を同時に制御するという場面が頻出する。
これは単に二声を弾くだけでない。それぞれの声部に異なるアーティキュレーション、音量、方向性を与える必要がある。
▷練習法①:声部分離のための「聴き分け練習」
- まず、上声部のみを明瞭に歌うように弾く。内声はごく弱く、存在感を消すように。
- 次に、内声をメインに聴くようにし、上声は「添え物」として扱う。意識的に役割を入れ替える。
- 最終段階で、両者をバランス良く共存させる。あくまで「二人の歌手が同じ手の中で歌っている」ような感覚で。
▷練習法②:指の独立性トレーニング
- 和音の中で、特定の指だけ強く、他を極端に弱くする「指の内在的ダイナミクス練習」を行う。
- 親指と小指のコンビネーションを多用した練習が特に有効。これらの指が声部の最上・最下端を支えるからだ。
- いずれの練習でも、「すべての指を均等に使おうとしない」こと。役割に応じた力配分を徹底的に叩き込むことが肝要。
● ② ロマン派技巧的パッセージへの習熟
《51の練習曲》には、ロマン派後期特有の16分音符主体の流れるようなパッセージが随所に見られる。
これはショパンやメンデルスゾーン、あるいはシューマンに典型的な「手の回転」を伴う連続技法だ。
しかしブラームスは、それらを単なる技巧では終わらせず、あくまで構造的・内声的に制御させようとする。
構造を意識した「骨格抜き出し」練習
- まず、音符をすべて弾かずに、和声の骨格のみを抽出して弾いてみる。
- メロディラインやバスラインを拾い、16分音符のパッセージがどのようなハーモニーの上に構築されているかを把握する。
- 和声の流れを「和音の進行」として理解した上で、そこに細かい音型を重ねると、指の混乱が激減する。
スピードより“粒立ち”を追求する
- 16分音符の連続パッセージは、まず2つずつ・4つずつのグループに分けて練習する。
- それぞれの塊がどのように次の音へ“重心を移動”しているかを観察する。
- 各音が均等に打鍵されることよりも、「語るようなニュアンス」で演奏できることを目指す。
「無理しない速さ」で練習しない
- スローで練習するのは基本だが、あえて“中途半端な速さ”で練習すると、重心移動と音の接続が雑になりやすい。
- したがって、**「弾けるテンポ」ではなく「構造が見えるテンポ」**で練習することが推奨される。
- 速度を上げるのではなく、音価の感覚と運動パターンを内在化することが先決。
■ 練習で得られるのは「指の強さ」ではない
《51の練習曲》を通じて得られるのは、いわゆる“腕力”や“音量”ではない。
むしろ「思考と触覚の統合」である。
各音がどの和声に属し、どの構造の一部であるかを理解し、それを身体で運用する能力。
それが、この曲集の真の目的だ。
この練習は、演奏者の“楽譜に対する解像度”を格段に上げてくれる。
それは単なる技巧を超えて、音楽を「解釈」する感覚を育てる。
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